Diary Blog of Dary

temtanが書いた文章

「感動」の後の話をぐだぐだと書いてみる

前のエントリでの「良し」ってのは意味としては「幸せ」とか「快感」とか「満足」とかそんな文脈で使いました。つまり、自分は感動しても「幸せ」とか「快感」とか「満足」出来ない(けどしたい)人間だという事。

そういえば感動で思い出したことがある。小学生のころに学校で南極物語を見ることがあったのだが、当時ファミコン大好きなガキだった自分は1時間以上もおとなしく物語を読み取るなんて出来なくて、誰かに「これいつ終わるの?」って聞いたら、その後で血も涙も無い人間みたいな扱いをうけたなあ。あれ以来ひねくれてしまったのか意地なのか、自分が感動するものを探しまくった。まあそれなりに見つけたのだが、これがまた誰の共感も得られずに、どんどんと変人として孤立していった気がする。

結局、何かしら感動しても共感する相手がいなかったり、ましてやそれが孤立する要因でもあったりと「感動」から先の「幸せ」とか「快感」とか「満足」とかに繋がらなかった人間にとっては、いくらか年をとってしまうと「感動」にも麻痺してしまうんじゃないだろうか。

そういう意味では現在はインターネット等のお陰で相当に恵まれているといえる。あまりにニッチな事で無い限り、共感する相手は見つけられるだろう。と言いたい所だが、本当にニッチだったりすると、逆にインターネットであっても駄目だったのかと絶望したりするので過剰な期待は危険かも。まあ、インターネットでも旬の話題はある訳ですな。

以前はこんな感じだったが、「時をかける少女」は正に今が旬だし、共感できる人も多いので、何かが変わりそうな気がした。それが「あと一歩」という表現になった。とりあえず、誰か無理にでも連れて行かせてみようか。