Diary Blog of Dary

temtanが書いた文章

「感動して泣ける」ことを「良し」と出来ない不幸

今話題の「時をかける少女」を見てきました。ネットで誉めまくられている時に友人から誘われたので行きました。んで、どうだったか言うと、感動して涙が出てきました。本当に泣けますね、この映画は。この映画の出来がどうかは他のネットでの評判を見てもらった方が良いでしょう。自分はここここの評判が印象に残っています。
時をかける少女を100倍?楽しむための個人的お気に入り感想リンク集
「時をかける少女」感想リンク。
客観的に言える事は、スタッフロールが流れ始めても誰も立ったりしないどころかざわめきすら起きなかったのは凄いんじゃないかと。あと、3ヶ月近く更新してなかったブログを更新させるとか。
んで、本題。感動した。涙が出た。そこまでは事実。じゃあ、
涙が出るほど感動する事は「良し」なのか。
「何を言っているんだ」と思われるかもしれない。普通なら感動したとかはそれで誉め言葉になるだろう。ご飯を食べた。美味しかった。それは「良し」なのかと言ってるのと同様に馬鹿げた風に感じるかもしれない。見ている最中に何度も涙が出そうになった。特に山場であろう場面では一番込み上げるものがあった。それも息をしたら声が漏れそうなので暫く呼吸を止めてしまうくらい。こんなことは今まで全然無かった。
しかし、それが「良し」なのがかわからない。多分、殆どの人は「良し」な事なのだろう。しかし自分にとってはそのまま「良し」に直結していない気がする。正直よくわからないが、何か一歩足りない。いや、下地となる土台が無い感じだろうか。そこを結ぶ線が足りない感じだろうか。
なんとなくだが「耳をすませば」に近い感じがするような。流石にあれほど負の感情が直接喚起されることはないが、それは監督の手腕な気がする。こんなこと考えるのは俺だけなんだろうなあ思っていたら、こんな意見が。
「時をかける少女」観てきました。
同じような感じの人もいるようです。個人的には「耳をすませば」よりは現実性を意図的に暈している(特にポイントとなる場面では)と感じたので突きつけられている感は無かった気がする。作った側の配慮なのだろうか。
自分には何が足りないのだろうか。自分としてはもっと大泣きして「良かったー!!」と言えた方が幸せなのは判っているしそうなりたいのだが、何かおかしい。好きな女性と一緒に見て一緒に泣いて「よかったねー」が言い合えれば幸せななのだろうか。それが実現しないと感じているから駄目なのだろうか。なんでこんなに素直じゃないんだろうか。誰かおしえて。

追記

耳をすませば」を思い起こした人は結構いるみたい

http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060724/p1
http://blog.livedoor.jp/livenhk/archives/50585605.html
http://tekitou-tekitou.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_bbc9.html
http://d.hatena.ne.jp/caprin/20060725#p4

ただ、「耳をすませば」よりは好意的に受け取られているみたい。これも作った側の配慮なのだろうか。